追憶、そして予感

the end

地球のみなさんこんにちわ。きょうはchibinovaお兄ちゃん先生が、おもしろく記事を書きます。もしかしたら、まるでおもしろくないかもしれませんが、しばらくおつきあいください。

以前ミニハンドさんにダビングさせていただいた、アルゼンチン出身であるメルセデス・オーデュラの1stアルバムをようやくちゃんと聴いていて、最終トラックがニコのカバーであることに嬉しがる。1stアルバム『チェルシー・ガール』の冒頭を飾る「The Fairest of the Seasons」。とにかく『ボーイ・ミーツ・ガール』のミレイユ・ペリエが好きで好きでしかたなかった高校生のころ、いかがわしい輸入盤屋の店頭に飾られていたヴェルヴェッツのブート盤のジャケットに映るニコに一発で惚れ込み、数枚めぼしい盤を買って帰ったものの、演奏よりもテレコを持ち込んだ奴のものとおぼしきしゃべり声のほうが大きいというしろものばかりだったので、ただジャケットを眺めて悦に入っていたことが思い出される。のちにそれが「ウォーホルのバナナジャケで有名なやつ」だったと知り、なおかつロック史的に重要な位置を占めるものだとも知ることになるわけだけれど、もともとファッションモデルだった彼女が「絵的に」あてがわれて在籍したという事実のほうが自分には重要だったし、ストーンズにしたって、貴族の末裔であるマリアンヌ・フェイスフルが身を持ち崩していった「現場」ぐらいにしか思っていなかった。女子はつきあっている男子の趣味に影響されがち、という通説があって、それを裏付ける事例もたくさんあって、しかもロックなんていったらあなた、ばりばりのやおいワールドですよ。だから女子的に、「萌えて」いられるあいだはいいのだけれど、その主体になろうとすると、文法が違い過ぎるために潰れてしまったのかななどと考えていた。ところがパンク以降の場合はそうでもなくなり、スージー・アンド・ザ・バンシーズやスリッツなど、ニューウェイヴへの橋渡しとなったグループも数多く存在する。が、それは受け手が「誰が一等強えか」的なロックにうんざりし始めていたことを証明しているようにも思う。で、ニコに話を戻すと、そののち中古CDで『マーブル・インデックス』を手に入れて聴いたり、ゴシックが好きだというアマチュアバンドの女子ヴォーカルの子からその魅力を熱く語られたりしつつ、20代のなかばごろ『チェルシー・ガール』と出逢い、ふたたびそのジャケットに心奪われたのだった。ウォーホルのいうチェルシー・ガールとはこのことなんだな、と間違った感慨に耽りつつ。そして『ニコ・イコン』。公開前に『テレビ・ブロス』というテレビ情報誌で特集記事が組まれていて、それをていねいに切り取ってスクラップした。そしてたぶんヴェルヴェット・ムーンでだったと思うのだけれど、『ジ・エンド』を手に入れた。ボブ・ディランブライアン・ジョーンズ、ウォーホル、ヴェルヴェッツを経て、ジム・モリソンと出逢ったことでつくられたレコード。聴きながら、ニコを思い出すたびこのアルバムを聴くことになるのだろうな、と思った。七藝で『秘密の子供』がかかったときには、クスノキくんとふたり連れ立って観にいった。ガレルの追想をそのままフィルムにしたような内容で、ほとんどの部分が無音。すなわち、「4分33秒」が劇伴というわけである。どう見積もっても『裁かるゝジャンヌ』(これもサイレント映画)を観て涙を流すアンナ・カリーナにほど遠い我々であったが、それでも観終わったあとなんとなく満足感をおぼえつつ、いくつかのグッズを買って帰った。それから数年が経過したいま、この文章の書き出しである、新しいニコ的記憶がくわえられたというわけです。